♪ちょっといい話♪

在宅ビジネス、副業、副収入、SOHOのあい間に、教育、子育て、健康、ダイエット、人生等に「ちょっといい話」の雑誌や新聞の記事を紹介します。

◆公開授業で発表できたY君
 
三年生になると、Y君のどもりは随分改善されたようでした。
 
また、どもっても言い直しができるようになりました。
 
道徳の地区公開授業で、私のクラスは、
 
ディスカッションをすることになったのですが、
 
Y君が手を挙げて自分の考えを堂々と発表してくれました。
 
クラスの皆が「オー」という驚きと賛同の声をあげました。
 
私は、思わず涙が出てきました。
 
「できた。しかも多くの方が見ているこんな場面で……」と、
 
大感動を覚えました。
 
卒業式を前にして振り返ると、
 
Y君は、一年生の時、二十一回もあった"爆発"が、
 
二年生の時には二回、三年生の時は、ついに○回でした。
 
すごい成長ぶりです。
 
卒業式の日に、Y君のお母さんからお手紙をいただきました。
 
「先生、三年間ありがとうございました。
 
先生は私たち家族にとって、
 
また、息子にとって太陽の存在でした」という、
 
感謝の言葉をいただきました。
 
私は、Y君に接することで、
 
教師として貴重な教育実践をさせていただきました。
 
彼との関わりを通して、私自身が教師として成長できたのです。
 
 
(灯台より)

◆私は、和歌山在住の【miz】といいます。

不況で30数年勤めていた会社が閉鎖、全員解雇となり

副収入を捜していた時です。

工場で物を相手に仕事をしていた私にでも出来る在宅ビジネスに出会いました。

おまけに喜んでもらえて副収入になる在宅ビジネスでした。

本当に良かった。(^ △ ^)♭♪ この在宅ビジネスに出会えて!
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◆「何度失敗しても挑戦すればいいんだ」

私はY君に、「どんなに時間がかかっても、要するに分かればいいんだ。

人の二倍でダメなら、三倍やればいいんだ。

何度失敗しても、また挑戦すればいいんだよ」と、

肯定的な指導をすることにしました。

Y君がキレて落ち込んだ時でも、「前の時より早く落ち着けたね。

すごいね。頑張ったね」と、とにかくほめて、自信と希望を持たせました。

お母さんには、「Y君は勉強が苦手なだけですから、

とにかく一緒に少しずつ課題に取り組んで、できたらほめて、

自信を持たせてください」とお願いしました。

一方、クラスの子どもたちには、

「人が気にしていることを絶対に言ってはいけない。

まして、どもってしまうことや、失敗した時、そのことを言ったり、

まねをしたりしてはいけない。

また、Y君が暴力行為をしたら、必ず止めてほしい。

それと同時に、他の者がすぐに先生に連絡に来てほしい」と話しました。

皆、素直に聞いてくれました。

こうして五月中旬頃から、クラスの子どもたちの意識は変わり始めました。

Y君をキレさせない環境ができていったのです。


◆運動会や文化祭で成長するY君
 
五月の運動会の大ムカデ競争では、Y君はリズムがつかめませんでした。
 
予行演習では、他のクラスに校庭一周の大差をつけられてしまいました。
 
私は、みんなと話し合って、目標を完走にしました。
 
Y君には、「カが強いから君はクラスの先頭で、
 
機関車をやってくれないか?」と頼みました。
 
迎えた本番当日。
 
あの遅かったうちのクラスが、トップとの差は
 
約半周になるほど速くなっていました。
 
先にゴールした相手のクラスも、二、三年生の先輩も、
 
保護者の方も、私も彼らに声援を送り、一緒に走りました。
 
大感動のゴールでした。
 
二学期、文化祭の学年合唱では、
 
楽譜が分からないY君に耳で覚えさせようと、
 
朝の学活、給食の時間、帰りの学活など、
 
テープを何回も聞かせました。
 
当日はいい顔で歌ってくれました。
 
この頃から、私の指導は、次の段階へと進みました。
 
Y君に対して、「どもってしまっても、また言い直せばいいじゃないか。
 
誰でも失敗した後が大事なんだよ」と
 
話しました。Y君は、失敗しても、
 
立ち直りが早くなりました。
 
(灯台より)

◆私は、和歌山在住の【miz】といいます。

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◆新しい学校で決意も新たに

教職七年目に中学校の一年生のクラス担任となりました。

学習障害については研修で聞いたことがある程度で、

どこか遠い話のように思っていました。

ところが、入学して二日目の給食の準備中、

その問題にいきなり直面しました。

「ウォー」という大きな声を突然、学習障害児であるY君が発したのです。

これが最初の"爆発"でした。

大声の次には、全身から汗と目から大粒の涙が流れ出てきました。

目つきも細く、どこを見ているのか分からない目になり、

話しかけようとすればするほど、よけいに興奮するのです。

二回目の"爆発"は、二週間後、

一泊二日の宿泊行事の最中に起こりました。

どもったY君に、「何を言ってるのか分からない」と言った子がいました。

その瞬間、Y君は例の状態になってしまったのです。

この時は、その子に殴りかかろうとしましたが、

周りの子どもたちが一斉にY君を押えてくれたので、事なきを得ました。

◆「先生、ぼく変わりたい」
 
Y君は、小学校では泣き叫ぶだけだったのに、
 
中学校では相手に向かっていくようになったのです。
 
そんなY君を見ているうちに、私は、「Y君のために何とかしたい。
 
Y君のために、私はこの学校へ来たんだ」と考え、
 
「絶対に治してみせる」と決意しました。
 
まず、Y君とじっくり話し合いました。
 
「どんなことがあっても、暴力はいけない。
 
相手にけがをさせる危険がある」と話しました。
 
するとY君は、「自分では、どうすることもできない。キレている
 
時のことは、あまり覚えていない。
 
でも、ぼく変わりたい」と話してくれました。
 
私は思わず、一緒に変わろう」と言うと、大きくうなずくY君でした。
 
私は、「そのためだったら、何でもするよ」と彼に約束しました。
 
次に、お母さんと面談をしました。
 
その後、お母さんはY君を連れて専門機関で受診をしてくれました。
 
診断は「図形を正しく認識することができない。
 
軽度の吃音(どもり)。不器用である」また、「これによって国語、
 
数学、英語、社会などの理解に苦しんでいる」ことが分かりました。
 
(灯台より)

◆私は、和歌山在住の【miz】といいます。

不況で30数年勤めていた会社が閉鎖、全員解雇となり

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◆いったい自分は何がしたいのか

そして高校入学。

同級生と打ち解けたい一心で、ものまねを披露したら、

とても受けたんです。

最初は、竹中直人さんがやる草刈正雄さんのものまね。

どんどんものまねのレパートリーを増やしていきました。

そして野球選手になることが、

体力的にも技術的にも難しいと気付くようになった頃、

新たに見つけた夢は、役者になることでした。

テレビで『池中玄太80キロ』を見て、西田敏行さんのように、

おもしろく、ほんわかさせて、泣かせる役者さんになりたい。

そう思うようになりました。

夢に向かって、今できることを自分なりに考えた僕は、

どんどん人前に出るようにしたんです。

高校三年生の時には、テレビのものまね番組に出ました。

あれよあれよという間に本選で優勝しました。

その時は、役者の夢がグッと近づいたように感じましたね。

そして高校卒業と同時に役者をめざして上京。

日本映画学校に入学したのですが、おもしろくなくて、

三ヵ月で退学しました。

その後、テレビの『笑ってる場合ですよ!』で、

ものまねチャンピオンにもなりました。

でも、これが本当に自分のやりたいことなのか疑問に思い、

それからは目標を見失って、逃げるように沖縄に帰りました。

いったい自分は何がしたいのか、必死に答えを探しつづけ、

二十一歳で再び上京して劇団民藝に入団。

昼間は劇団で稽古をして、夜はアルバイトに出かける、

という生活がスタートしました。

でも、笑いの取れる芝居がしたかった僕は、

役者をやっていても楽しくない。

劇団の方向性ともどんどん合わなくなってしまって……。

自分はやっぱり役者に向いていないのか、と悩んでいたある日、

たまたま劇団の宴会でものまねを披露。

その時、ベテラン俳優の米倉斉加年さんから、

「おまえは一人でやってる時のほうが生き生きとしているから、

役者じゃなく、一人でやってみたら」とアドバイスされたんです。

そのひと言に背中を押され、

漫談などの一人の芸にいろいろチャレンジしました。

そんななかで、小学生の頃にテレビで見た腹話術を思い出し、

独学で鏡の前で練習するようになったんです。

やっぱり人それぞれに向き不向きがあるんだと思いますね。

人を楽しませる手段はいくつかあるけど、僕にとってそれは腹話術師でした。

いろいろ回り道もしましたが、ものまねや役者の経験も、

腹話術の芸に生きていると考えると、

なにひとつ無駄なことはありませんでした。

誰にもまだ発揮されていない能力があり、

その力を発揮さえすれば夢は叶うんだと、実感しています。(談)

いっこく堂●1963年、沖縄県出身。本名・玉城一石。
高校卒業後、上京。86年、劇団民藝1こ入団。
92年から、独学で腹話.術を学び始める。
98年、「OWARAIゴールドラッシュ」で優勝したのをきっかけに、
さまざまな声色を使い分ける独自の芸風が話題に。
99年、文化庁芸術祭新人賞を受賞。
全米ツアーでの英語公演や、中国・上海国際芸術祭での中国語公演など、
堪能な語学力で国際的にも活躍している。
http;〃wwwjkkokudou.com/


(灯台7月号より)

◆私は、和歌山在住の【miz】といいます。

不況で30数年勤めていた会社が閉鎖、全員解雇となり

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いじめに耐えた中学時代

両親は沖縄出身なんですが、神奈川のタイヤ工場に一家で働きに来ていて、

僕が五歳の時に、コザ市(現在の沖縄市)の借家に引っ越すことになりました。

家族で海を渡ったのを覚えています。

地元の子どもたちは、僕が関東の言葉を使うのが気に入らなかったようで、

「お前、変なしゃべり方だな」と、石を投げられました。

そして、あっと言う間に取っ組み合いの喧嘩が始まって、

散々転げまわった末に、相手の子から「お前、根性あるな」と言われて、

すっかり仲良くなりました。

その頃の僕は、どちらかというと、人見知りをしない明るい子。

沖縄の自然に阻まれながら、のびのびと過こすことができました。

そんな性格が変わったのは中学一年の夏。

当時、プロ野球選手を夢みていた僕は、野球部に入っていましたが、

ちょっとした行き違いから、

チームメイトの悪口を言っていると勘違いされて、

「一石と話をするなよ」という話が野球部からクラスに広がり、

しまいには学年全体に広がってしまったんです。

野球は好きだったので野球部を退部することはしませんでしたが、

クラスでも、部活でも、話す相手がいない。

ひと言も口をきかずに家に帰ることもありました。

それでも、自分がいじめにあっていることを

両親に相談することはできませんでした。

心配をかけたくないという気持ちが強かったんです。

そして、中学卒業までの二年半、

いじめがなくなることはありませんでした。

救いだったのは、僕は家族と仲が良かったということ。

家に帰れば、年の離れた弟の子守という役目があったんです。

僕を必要としてくれる存在がいて、

ちゃんと僕のための居場所がありました。

それに、家の近所には特殊学級(現在の特別支援学級)に

通う友だちが住んでいて、

彼らが今までと変わらない態度で接してくれたので、

学校でのいじめにも追い詰められずにすんだのだと思います。

「高校に入ったら絶対に自分は変わるんだ」。

そう言い聞かせて、自分のなかに明るいエネルギーを

ため込んでいたように思います。

いっこく堂●1963年、沖縄県出身。本名・玉城一石。
高校卒業後、上京。86年、劇団民藝1こ入団。
92年から、独学で腹話.術を学び始める。
98年、「OWARAIゴールドラッシュ」で優勝したのをきっかけに、
さまざまな声色を使い分ける独自の芸風が話題に。
99年、文化庁芸術祭新人賞を受賞。
全米ツアーでの英語公演や、中国・上海国際芸術祭での中国語公演など、
堪能な語学力で国際的にも活躍している。
http;〃wwwjkkokudou.com/

(灯台7月号より)

◆私は、和歌山在住の【miz】といいます。

不況で30数年勤めていた会社が閉鎖、全員解雇となり

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アルツハイマー病、米国で動物実験
 
砂糖摂取量を減らせば発症リスクの低下にも
 
まず、岩手大学の学生の話を紹介したい。
 
「痴ほう(当時の言葉)が進んできた祖母が菓子をほしがり、
 
ひ孫の分までとり上げて食べるようになったので、
 
母が心配し、菓子類を家に置かないようになりました。
 
それ以来、痴ほうの進行はストップしています」
 
この報告は、日常生活の単なるエピソードのように感じられるが、
 
実に重要な意味を含んでいる。
 
食生活から精製糖を取り除くことで、
 
認知症の進行を止められるかもしれないという、
 
実験で検証可能な仮説を示唆しているのである。
 
次に、米国のアラバマ大学医学部の
 
ドンフェン・ツァオらによる動物実験の報告をとりあげたい。
 
これは昨年12月、『生物化学雑誌』に発表されたものである。
 
彼らは、砂糖を多く摂取することが、
 
脳にどのような影響を与えるかについて実験した。
 
ネズミにエサをやる際、通常のエサに加え、
 
10%の砂糖水を与えた場合と、
 
普通の水を与えた場合を比較したのである。
 
25週間続けた結果、砂糖水を飲んだネズミは、
 
水を飲んだネズミに比べ、体重が17%増加した。
 
また、砂糖水を飲んだネズミは、
 
糖尿病の初期症状-耐糖能異常と高インスリン血症-を示した。
 
行動テストをしてみると、砂糖水を飲んだネズミには、
 
学習能力と記憶力にかなりの低下が見られた。
 
また、その脳内では、アルッハイマー病の特徴である、
 
アミロイド斑(アミロイドと呼ばれるタンパク質の沈着)と
 
神経原線維変化(神経細胞内の線維が複雑にからまる病理変化)の
 
形成を促進する、アミロイド・タンパク質のレベルと蓄積が、
 
2〜3倍増加したという。
 
さらに、脳のアボリポタンパク質Eの値が2.5倍の増加を示したが、
 
これは脳内のアミロイドの蓄積につながる。
 
このような結果から、ドンフェン・ツァオら研究者は、
 
砂糖入りの甘味飲料の摂取量を減らすことが、
 
アルツハイマー病の発症リスクを低下させる効果的な方法ではないか、
 
と結論付けている。
 
これまで、私のとりあげてきた資料等とも一致する重大な知見である。
 
それは同時に、現代人の食生活に対する警鐘であるといえよう。
 
岩手大学名誉教授 大沢博
 
(聖教新聞より)
 
◆私は、和歌山在住の【miz】といいます。

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一方、同時期にはキューバで共産主義革命が成功、

大臣をつとめた後のチェ・ゲバラがボリビアでゲリラ活動を始める。

バルビーは米情報局と連携し、ゲバラの殺害計画を立案する。

殺害が成功すると、ゲバラより15歳も上の世代だったバルビーは言い残す。

「第2次世界大戦を戦っていたらこんな男はとっくに戦死していた。

惨めな冒険主義者にすぎない。マスコミがつくりあげた偶像だ」

そんなバルビーの順風生活は長くはつづかなかった。

彼のあからさまな活動がユダヤ人組織の目にとまり、

「ナチ・ハンター」のク夫妻らから告発される。

戦犯として国際社会から厳しい追及を受けることに。

83年にボリビアからフランスに護送され、

通称「バルビー裁判」と呼ばれる戦犯法廷の被告人席に座らされた。

同国では死刑制度が廃止されており、最高刑の終身刑となった。

91年、がんに蝕まれリヨンで獄死する。

映画はいくつかの場面が時代順に追われる。

1、ナチスのゲシュタポ時代

2、米工作員として働いた欧州時代

3、南米での逃亡・活動

4、フランスでの戦犯追及

作品はすべて当事者の証言(インタビューしたもの)と歴史的映像を使って構成。

裁判では、ベトナム系フランス人の弁護士が

バルビーを熱心に弁護する様子も生々しい映像で迫ってくる。

だが、87年7月3日、裁判官と陪審員は「終身刑」の判決を言い渡した。

バルビーの残した言葉が紹介されている。

「(拷問や殺人のために雇うなど)あなた方全員が私を必要としたのに、

裁かれるのは私ひとり。そこに偽善がある」

「国家悪」を根本から問いかける象徴的な場面である。

ナチス時代に生き、そこで身につけた能力を反共主義の闘争のために

利用された本人の、それは精一杯の言い訳の言葉であったろう。

わが国では戦中、ほとんどの作家や言論人が軍部に迎合したものの、

一転、戦後は不問に付された。

戦後、『国家悪』の大著を記した経済学者の故・大熊信行創価大学教授は、

国家悪の根は「人間の内面」にあると喝破し、

単なる政治学では平和を享受する国家は確立できないと主張した。

「人間の内面」を変革する方法、

それこそ正しき宗教の役割であることを思い起こさせる。(ジャーナリスト)

●東京・銀座シアトルシネマなどで7月ロードショー。

詳しくは公式ホームページhttp://www.teki-tomo.jp/

柳原滋雄 やなぎはら・しげお1965年、福岡県生まれ。
著書に『カンボジアPKO体験記』など。

(聖教新聞より)


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ドキュメンタリー映画「敵こそ、我が友」

ナチ戦犯を題材に「国家悪」描く
裁判であぶり出された"内面の闇"
 

2005年に96歳で死去したサイモン・ウィーゼンタールは

「ナチ・ハンター」の一人として、

米ロサンゼルスに自身の名を冠する

「サイモン・ウィーゼンタール・センター」を設立した。

国や団体を問わずわずかな「ナチ擁護」も許さず、

戦犯追跡にかかわった人数は4ケタにのぼる。

この7月に封切り予定のフランス映画『敵こそ、我が友』は、

同じようにナチ・ハンターとして知られる

クラルスフェルト夫妻(フランス)の告発で捕まった大物戦犯

クラウス・バルビー(1913〜91)を主人公にしたドキュメンタリー映画である。

バルビーは、第2次大戦中、ドイツ軍が占領した

仏リヨン市でレジスタンス運動を取り締まるゲシュタポの責任者として、

「リヨンの虐殺者」との悪名を広げた人物。

映画でも、拷間相手の歯をペンチでへし折ったなどの

被害者らの生々しい証言が相次ぐ。

ナチスドイツの心酔者で、

粗暴で残忍な性格だったバルビーは戦後、

多くのナチ戦犯と同様に、名を変えて逃亡をつづけた。

時代は、東西冷戦へと移る。

ナチ時代に身につけた拷問や尋聞のノゥハウ、

反共産思想に目をつけたのが、西側の指導国ともいえる米国だった。

バルビーは、欧州全体の「反共産運動」のために"有用"な工作員として、

米国情報局によって雇われ、同時にかくまわれた。

そうしてナチ戦犯の追及から逃れつづけた。

それでも抗しきれなくなると、米側は南米へ逃亡ルートを開いて救った。

「クラウス・アルトマン」という変名のパスポートを作成。

バルビーは南米一帯に散らばっていたナチス残党の中心者として、

武器の密輸や情報収集にあたった。

生活の拠点であったボリビアに武器取引会社を設立、

巨万の富を得るまでに成功する。

●東京・銀座シアトルシネマなどで7月ロードショー。

詳しくは公式ホームページhttp://www.teki-tomo.jp/

柳原滋雄 やなぎはら・しげお1965年、福岡県生まれ。
著書に『カンボジアPKO体験記』など。

(聖教新聞より)

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代表的な認知症といえば、アルツハイマー病である。

2004年、『よくわかるアルツハイマー病』

(中野今治・水澤英洋編、永井書店)が出版された。

その中に「アルツハイマー病と食事」という章タイトルで、

高インスリン症に関する記述があった。

「患者の食行動異常には、糖分特に精製された砂糖の過剰摂取が極めて目立つ。

具体的には、アメを1日中なめる、

おはぎや大福なら五個くらいは平気で食べてしまう。

コーヒーに砂糖をスプーンで3〜4杯入れてしまう。

アイスクリームを1日に5〜6本食べてしまうなどである」と。

執筆者の植木彰・自治医大教授は、

2006年に「アルツハイマー病と栄養」という論文を発表した。

その論文では「患者は極めて甘いものに対する嗜好が強い。

インスリン分泌を強く促す精製糖の過剰摂取を抑えることが重要と考える」との、

興味深い提言を行っている。

今からさかのぼること9年前、

私は『ある日突然、妻が痴ほう症になった』(大和書房)という1冊を購入した。

この本の書き出しは大要、次のようなものであった。

51歳の妻がある日、確か4つは入っていたケーキの箱を空にしてしまった。

娘が聞いても、あいまいな返事しか戻ってこない。

この時は、彼女がまさか、痴ほう(当時の言葉)だとは思わなかった。

本書の中で、私が注目したのは

「もともとケーキは妻の好物でした」との記述であった。

その後、半年の間に、体重の激減をはじめ、妻の身体に大きな変化が生じた。

そして、物忘れが始まったという。

失踪、俳徊、失語症など、アルツハイマー病の症状が彼女を襲ったのだ。

夫は、妻の今の好物も書いている。

パパイアやジュースなど……。

妻はケーキとコーヒーが大好きだったことから、

ヘルパーを交え、3人で"お茶の時間"を楽しむことがあるという。

その際、妻のコーヒーはミルクたっぷりのもの、

生クリームケーキをビックリするほど、よく食べるそうだ。

言うまでもなく、糖分の取り過ぎである。

認知症の例を聞くにつけ、その恐ろしさが感じられてならない。

岩手大学名誉教授 大沢博

(聖教新聞より)
 
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千人の命を救う
 
江戸時代中期の産科医で、賀川玄悦という人物がいる。
 
そんな時代に、男性の産科医がいたのかと、意外に思うかもしれない。
 
でも産科の専門医というのは、人数はわずかだが、
 
実は平安時代から存在していた。
 
ただ、お産は、たいがい産婆が手がけ、
 
難産による死亡率は、かなり高かった。
 
たとえば逆子で、赤ちゃんが外に出てこられずに死んでしまうと、
 
母体も死を待つだけだった。
 
数字が記録として残っていないので、正確にはわからないが、
 
現在、帝王切開は約二割。
 
そこから単純に推定すると、放っておけば二割が難産になり、
 
そのまた何割かは死に至ったのだろう。
 
まさにお産は、男が戦場におもむくのと、同じ覚悟が必要だった。
 
賀川玄悦は、こういった場合に、日本で初めて外科的処置を行ない、
 
母体の命を救った人物だ。
 
もとは近江の生まれだが、京都に出て、鍼や按摩によって、
 
貧しい人々の病気治療をしていた。
 
だがそれだけでは食べていかれず、古鉄の回収業もしていた。
 
四十歳の時、隣の家で難産があり、母体が死に瀕した。
 
玄悦はこれを哀れみ、ひと晩、考えた末、商売ものの鉄鉤を使って、
 
死んだ胎児を取り出し、母体を助けたのだ。
 
以来、千人の産婦を助けたいと誓いを立てた。
 
だが現代の臓器移植と同じように、玄悦の処置も、社会的に大反発を受けた。
 
また特に女性の性に関わることだけに、白い目で見られたことだろう。
 
彼の生涯は、偏見との戦いだったにちがいない。
 
それでも次第に理解され、入門する弟子も増えて、
 
晩年には産科術の専門書を出版するに至った。
 
玄悦の死後も、賀川流産科術は代々隆盛を極め、
 
明治になって西洋医学が導入されるまでに、弟子は二千人に及んだ。
 
玄悦は触診や内診を、日本で初めて行なった医者でもあり、
 
それによって胎児が頭を下にしていることに気づいた。
 
当時は胎児の頭は上向きと信じられていたのだ。
 
これはイギリスのスメリーという産科医と、ほぼ同時期の発見で、
 
世界に先駆けた大発見だった。
 
玄悦は日本が世界に誇るべき人物なのだ。
 
彼の唯一の楽しみは、毎年冬が来る前に、家のない子供たちのために、
 
綿入れの着物を配って歩くことだったという。
 
私は、こんな人物を、もっと知ってもらいたいと願ってやまない。
 
植松三十里
1954年、東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業後、
出版社勤務などを経て渡米。
80年「ハドル・アンド・ブレイク」で集英社青春小説新人賞佳作入選。
専業主婦のかたわら季刊日本語新聞「ひまつぶ新報」を発行。
2002年、「まれびと奇談」で第13回九州さが大衆文学賞佳作入選。
03年、「桑港(サンフランシスコ)にて」で第27回歴史文学賞を受賞し、
これに「燃えたぎる石」を併載して『桑港にて』を刊行。
他の作品に『黍の花ゆれる』『千の命』『天璋院と和宮』などがある。

(第三文明4月号より)

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